今日は、“ガイド対お客さん” ではなくガイド個人の勉強について。
この日はツアーではないのですが、自然保護官(補)の若い女の子とフィールドワーク。
質問したり疑問を聞いたり、といった素直なコニュニケーションに感心するオジサンなのでした。
というのは、
「私、まだ自然のコトよく分からないです。」
と言いながら、“?” をいちいち聞いて質問する。
「アレ、◯◯でしたっけ?」
「あ~、そうそう、◯◯でした~(笑)。じゃコレは??」
こんなふうに、また新たに疑問が生まれてあーだこーだ話して…の繰り返し。
スバラシイことですね。
簡単なようで、こういう姿勢って意外とムズカシイもので……。
ワタシの若いころ(ガイドになりたて数年の頃)なんて、先輩と一緒に歩いていても、
「知っていないとハズカシイんじゃないか……」
とかいう気持ちからか、
「ふ~ん…なるほどね……」
と、その場では軽い感じで大したリアクションもせず(内心は「へぇーーー!な~る~ほ~ど~!!」)、だけど後でひとり黙々と調べて……。
イヌも喰わないプライドというやつでして、今となっては、お恥ずかしい限りです。
特にガイドや自然の勉強なんてあまりにキリがないので、日々の勉強やフィールドワークの時に、こんなふうに「聞く(質問する)」ということはとても大事。
700年ちかくも前に、かの兼好法師(吉田兼好・卜部兼好)は「徒然草」の中で次のように書いています。
(原文)
『能をつかんとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ。内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。
いまだ堅固かたほなるより、上手の中に交(まじ)りて、譏り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず、妄りにせずして年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人、に許されて、ならびなき名をうることなり。
天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。
されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、萬人の師となること、諸道かはるべからず。』
(意訳)
『これから芸事を身につけようとする人は、「未熟なうちは、人に見られたくない。人知れず勉強・練習して上達してから披露するのが格好良い」などと、よく勘違いしがちだ。こんな人が芸を身につけためしはない。
まだ芸事が未熟なうちからベテランに交ざって、バカにされたり笑い者になっても臆することなく、恥ずかしがらずに頑張っていれば才能や素質などいらない。道を踏み外したり、我流になることもないだろう。
そのようにして時を経たときには、要領だけよくてそのようなことをしなかった者を超えて、達人になるだろう。人間的にも成長し、努力が報われ、達人に至るわけだ。
どんなに優れた人も、最初は笑われ、けなされ、屈辱を味わった。それでもその人が正しく学び、尊重し、自分勝手にならなかったからこそ、無二のものとなり、万人の師となった。どんな世界も同じである。』
さすがです。兼好さん。ビバ!兼好!
いちいち納得です。
肝に命じておきたいものです。
15才以上も年下の女の子と一緒に歩いて、改めて思ったものでした。
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